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雑念系ブログ
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ただ風ばかり吹く日の雑念 心頭滅却すれば氷自ずから熱し
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メメント・モリ
2005年 01月 27日 *
室咲きの菜の花いのちひしめける

今日は空気よりはかなり重いラドン級くらいになってしまうかもしれない。

生命力の横溢を詠った句と、対をなすような、カラリとした死の瞬間について書かれた絶妙の文章にTrack Backするのは、なんだか恐縮なのですが、昨年は妙に、自分と同年代か少し年上の知人の訃報を聞くことが多く、年末から年明けにかけて、「死」について考える時間が長かったもので.......。

「死はいつも他人のもの」というようなことを誰か言っていたけど、人として他人の死から学ぶことはとてつもなく多い。

そもそも自分がYogaをやっているのも、10代半ばのある事件をきっかけに「死」から逆に照らされてくる自分の「肉体」あるいは「生命」というものを感じたり考えたりする手立てにしたい、ということがあったようだ。

「ある事件」というのはこんなことだ(1年以上前に書いておいたものだが、読み返すと、反抗期真っ最中の感覚がフラッシュバックしてしまう:苦笑)。



【割れた天窓】

 何年か前の新聞の片隅に「横須賀市の中学校の屋上で、生徒が樹脂製の明かり取り用の天窓に乗って遊んでいるうちにその部分が割れ、転落死」するという事故が起きたという記事が載っていた。
 僕は、「ああ、そんな事故がまだ繰り返されているのか」とやりきれない気持ちになった。その何年か前にも、同じような痛ましい死亡事故が慶応の日吉高校でも起きていた。ニュースで偶然知った2つの事故とも神奈川県内で起こっているが、全国規模で見ると更に多くの同じような事故が起こっているのかもしれない。
 なぜ、そのようなニュースに過敏に反応してしまうのかというと、僕自身が中学生の時に全く同じ類の事故の現場に遭遇したことがあったからだ。
 我が母校の校舎は上空から見ると「H」の形をしていて、縦棒の部分が3階建てで、横棒の部分が2階建てになっており、2階建ての部分の屋上は3階建て部分を結ぶ渡り廊下でもあった。
 いくつかの「天窓」はその屋上/渡り廊下の一角にあり、授業の合間や昼休みにはそのあたりで遊ぶことができる。天窓の構造は、床から50〜60cmほどコンクリートが持ち上がっていて、その上に半透明の樹脂製のドームが乗っているというもので、普通に歩いていて踏み抜いてしまうようなものではない。しかしふざけたい盛りの子供のことだ。特に男子生徒はよくドームの上に飛び乗って遊んだ。僕自身も何度も乗ったことがある。堅いが弾力もあり、体重をかけると「ベコンベコン」という感触があって、今でも思いだすと冷や汗がでる。
 ちょうど季節は5月頃だっただろうか。天気のよい日の昼休み、いつものように何人かがそのあたりにたむろし、ドームの上に飛び乗ったりしてふざけ合っていた。一緒に遊んでいた僕のすぐ後ろで「パリンッ」という軽い破裂音がしたので振り向くと、直径60cmくらいのドームが割れている。とっさに駆け寄って下を見ると、3mほど下にT君が倒れていた。T君は当時としては小柄だった僕と同じくらいの体格。瞬間的に「自分があそこに倒れていたかもしれない」と思った。その後自分がどういう行動をとったのか、直後の記憶が途切れてしまっている。
 何日か危篤の状態が続き、結局助からなかった。脳挫傷。享年14歳。
 
 事故の後のことでおぼろ気に覚えているのは、授業中に訃報があった直後のことだと思うが、同じ学年の生徒全員が学校のバルコニーに出て黙祷しているような場面。僕の周りにいる生徒のほとんどが泣いているようだったが、僕は泣けなかった。倒れているT君の姿が目に焼き付いていて、悲しいという感情が蒸発してしまったような感じだった。それと不思議に思ったのは「どうしてT君と全く親しくもない奴らが泣けるのだろう」ということだった。嘘くさい感じがしたのだ。なぜか「ここで泣いている人達は、悲しんでいるように見えるが、きっとこの事故やT君のことなどすぐに忘れてしまうのだ」と思った。
 もう一つ覚えている場面は、葬式。学年全員で告別式に行った。家の前に列を作って待っていると読経が聞こえてきて、それが終盤になると「トン、トン、トン」という音が重なってきた。棺に蓋をして釘を打ち付ける音に、あちこちからすすり泣きが漏れる。やがて真っ白な棺が親族に担がれて霊柩車で運ばれていった。やはり自分は泣かなかったが、それまで経験したことのない大きな虚脱感があった。

 その後、一緒に遊んでいた僕たち数人の生徒は学年主任のK教諭に呼ばれ、「事情聴取」が行われた。故意に誰かが突き落としたりしたわけではないことは明白だったが、後日その生徒達の親も個別に呼び出しを受けた。その面談で学年主任は僕の母に「お宅の息子さんは性格が陰気ですな」と言ったという。どういう文脈での話かは当時も今もわからない。
 そのK教諭は当時40代後半くらいだっただろうか、美術専任で普段はおもしろおかしいことを言って生徒の受けもいい、気さくな感じの教師だったが、直接僕のクラスの担任ではないし、週に2〜3時間、美術の授業で顔を合わせるだけで、もちろん何か個人的な話しを交わした記憶はない。
 その頃(今もそうだが)、自分はどちらかというと内向的な性格だと自己認識していたし、悩みや不安やコンプレックスは人並み以上にあったかもしれない。美術の時間は嫌いではなかった。「もしかしたら美術方面に進むかも」という予感はあったから、集中していたし、神妙にしていたかもしれない。おとなしい生徒だっただろう。けれども、そのことを「陰気」と表現し、それを親に伝えることにどういう意味があるのかわからなかった。
 今思えば、その教師は学年主任としての在任期間中に死亡事故が起きて経歴に汚点が付き、そのやり場のない苛立ちを母にぶつけたのかもしれない。
 僕は、幸か不幸かそんなことで深く傷つくほど繊細な神経は持ち合わせていなかったが、以来、教師というより大人を見る目がかなり変わった気がする。今でも、初対面で「おもしろおかしい人」やいかにも「いい人」に会った時など、逆に「警戒セヨ」と無意識が警告を発しているようなところがある。それは正しい直感だったこともあるし、外れたこともある。まあ、それより前から「素直でない」自分の性格をこの教師のせいにはしないけれど。
 その事故の後、現場はドームの修復が行われ、その上に頑丈な鉄格子が設置された。だが、そんな事故を間近に見たり、その後に厭な体験をしたせいか、同じようなニュースに対しては、悲しみというより、怒りのような感情がわいてくる。あの教師がやり場のない苛立ちを僕や母にぶつけたことは多めに見るとしても、単純に、そういう構造は危険であるという教訓が「学校建築」の必須条項というより常識として、何故、共有されないのか。そういうものなのだろうか。
 もしも、在任期間という「喉もと」を過ぎれば熱さを忘れ、「事なかれ主義」からネガティブな情報が共有されないのでは、T君や同じ事故で死んだ子は浮かばれない。あの時に死んでいたかもしれない僕はそう思う。
by heavier-than-air | 2005-01-27 23:50 | body & soul *
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The Original by Sun&Moon